大阪の料理書の聖地『波屋書房』のこと
商業施設や飲食店が立ち並び、人がひっきりなしに行き交う大阪ミナミ。「なんばグランド花月」にほど近い、なんば南海通に『波屋書房』はあります。一見すると町の本屋。しかし堂々と掲げられた「専門料理書」の看板と、足を踏み入れた先に整然と並ぶ料理書の棚が“他所とは違う”一軒であることを静かに物語ります。目当ての一冊を求め、全国から料理人が訪れることもしばしば。「買うなら『波屋』で」、「『波屋』に行ったら置いてあると思って」——お客から厚い信頼を得る背景には、家族一丸となって支える、温かい仕事がありました。
文芸の聖地から、料理書の聖地へ

『波屋書房』の創業は大正8年。現在は料理書が充実する本屋として知られているが、その昔は、のちに小説家として活躍する藤沢桓夫(たけお)をはじめ、大阪高等学校(現大阪大学)の文科学生のメンバーらが手掛ける文芸同人誌『辻馬車』の発行所だった。当時のオーナーは画家の宇崎純一(すみかず)で店主は弟の祥二、そして縁あって芝本参治——現在の店主、芝本尚明さんの父が店に入っていた。
出入りしていたお客には『夫婦善哉(めおとぜんざい)』や『青春の逆説』などを著した織田作之助もいて、今も一角に「オダサク」コーナーが設けられている。店前には「オダサクアゲイン あとを追うもの」(たる出版株式会社)の大書。漫画家であり、イラストレーターである成瀬國晴氏の本のタイトルを、尚明さんの妻であり、書道家の昌子さんが書いたものだ。「成瀬先生とは小学校が一緒でね。この本は成瀬先生と僕の2人で売ったんちゃうかってくらい、よく売りましたよ」と尚明さんが目尻を下げる。
芝本尚明さん、90歳。趣味はカメラで、かつてはアジア、アマゾンにまで撮影に出かけたことも。「カメラを持ったら人が変わる」とは、昌子さん談。
店は成り立ちの所以もあって文芸書がメインだったが、尚明さんが継いだ数年後の昭和60年に転機が起こる。版元の営業マンの誘いで、大阪の朝潮橋で開かれた「第一回食の博覧会」に尚明さんと昌子さんが2人で出かけたのだ。「料理書はウチにも多少置いてたんですが、あんなに種類があるなんて思いもしなくて。料理人向けは料理の解説が懇切丁寧ですし、写真も美しい。平安時代から伝わる庖丁式の本なんかもあったりね。会場の外には氷細工なんかも飾られてて、お祭り気分でした」。
帰ってきた尚明さんにムクムクと湧いてきたのは「ウチの本棚にも料理書をたくさん並べたい」という想い。版元に相談し、段ボール箱20個分の料理書を送ってもらい、まずはフェアを開いてみることにした。
とはいえ、今のようにウェブで簡単に告知ができる時代ではない。そこで始めたのが、芝本家総動員でのチラシ配り。「東は堺筋、西は御堂筋。北は長堀通りまでかな。飲食店もお昼過ぎならお時間もらえるかと思って、14時から16時くらいまでチラシを持って訪ねました。でも、当時はなかなか厳しくてね。子どもが『こんな忙しい時に来るな!』って叱られ、ベソかいて帰ってきたこともありましたね(笑)」と昌子さんは振り返る。
それでも、50日近く続けたフェアは好評を得て、手応えがあった。何せ、近くには黒門市場や調理器具を揃える道具屋筋があり、割烹を中心とした飲食店が乱立している。地の利があるのだ。
現在、『波屋書房』の前には堂々と「専門料理書」の看板が掲げられ、これを見て店に入るお客も多いのだそう。
尚明さんはそれまで売れ筋だった風俗誌を外し、料理書をメインにすることを決断する。決め手は?と問うと「お客さんとお話しができて楽しかったから」と言う。「風俗誌の場合は、無言でお金を受け取るだけ。でも、料理書なら会話が生まれるんです。『何をお探しですか』とお聞きして、なければ版元に問い合わせをして。お客さんが探してる本は、可能な限り一緒に探したいんです」。
その会話が『波屋書房』の棚を作っている、と尚明さんと昌子さんは口を揃える。「ウチになかったら、ダブルで(2冊)注文するんです。一冊はお客さま用、もう一冊はウチの棚に。料理人がお求めになる本ですから、他の方も興味があるやろなって」。
その品揃えの多彩さはクチコミで広がり、客層がガラリと変わった。今や料理書は店の1/3を占める。棚には「日本料理」「魚料理」「むきもの」「鮨・ごはん」「フランス料理」「イタリア料理」……と、ジャンルごとに細分化して並べられ、レジの一番近くに「日本料理」の本を置いている。「量も多いし、一番よく売れるんです。レジの近くなら、お声がけもしやすいので」。
入口は2つあるが、どちらから入ってきてもお客の顔が見えるよう、レジは店の中央に。建て直しの際に入口近くに移動させたが、やはり元の位置がいいと戻したのだそう。尚明さんは「銭湯の番台みたいでしょう」と笑う。レジ回りに置いているのも、食関係の文庫本。セレクトは次男の貴和さん。
月に2度は教室で教えているという書道家の昌子さんによるジャンル分けの札。「お客さまには、『主人が書いたんか』って言われます。男の人の字やと思われるんでしょうね。『私です』と答えると驚かれますよ」と笑う。
お客や版元との繋がりを大切に
かつて『波屋書房』では、料理書を買った料理人に対し、「差支えなければ」と前置きしたうえで、メモ用紙に店の名前や住所、電話番号を書いてもらっていたという。そこに購入した本のタイトルを添え、出版社の古いPR誌に貼って保存していた。「もう今は、個人情報の問題があって送れないんやけどね。書いてくれてはった人に、ブックフェアなどイベントの入場券や、新刊案内などを送っていたんです」と尚明さん。メモには、「洋食が大好き」など、会話の内容なども書かれている。

手にしたPR誌には「290」の数字が記されていた。290冊目という意味で、1冊あたりのページ数は270。単純計算でも、290冊×270ページで、なんと78,300人分の記録になる。「重複してる方もいらっしゃいますけどね」と尚明さんは笑うが、そこからは店の歩みだけでなく、一人ひとりのお客と丁寧に向き合ってきた姿勢が見てとれる。
そうした積み重ねは、版元や著者との関係にも表れている。『波屋書房』の棚に並ぶ本には、著者のサイン入りが多い。大阪を舞台に活躍する料理人や書き手に限らず、東京の有名鮨店や懐石料理店の書籍にも、サインが入っていることもある。
理由を尋ねると、「ありがたいことに東京の版元さんが頼んでくださって」とのこと。絶版になると聞いた本は多めに仕入れたり、棚からなくなればすぐに補充したり。長年にわたる、細やかなやり取りの積み重ねが、互いを思いやる関係を育んできた。
そして何より印象的なのが、『波屋書房』に並ぶ本の美しさだ。何冊も重ねた一番上の本も、途中のものも、状態にほとんど差がない。「やはり、お客さまにはキレイなものを買っていただきたいですから」。飲み物を手にして入店しようとする人には「飲み終えてからお入りくださいね」と声をかけ、本を押さえるように読んでいる人には「大事にしてくださいね」と、優しく伝える。傷はもちろん、指紋さえもなるべくつかないように心を配っている。 それでも、立ち読みができないようにテープで留めたり、紐をかけたりすることはしない。「メーカーさんが綴じている場合は仕方ないですけど、中身を見て決めたい方もいらっしゃいますから」。
こうした小さな心配りの積み重ねが、今の『波屋書房』をつくってきた。どうせ買うなら『波屋書房』で。自然とそう思わせてくれる、温かさのある本屋である。
左/大阪の法善寺横丁『浪速割烹 㐂川』創業者である上野修三氏、息子の修氏、直哉氏の本は、親子揃って陳列。「日本料理大全」(シュハリ・イニシアティブ株式会社)の日本語、英語版も揃う。右/「だしの研究」(柴田書店)は尚明さんの推し、「和食店の鮮魚つまみ」(柴田書店)は昌子さんの推し。どちらが売れるか、静かな戦いも繰り広げられている。
絶版になるとネット上では価格がつり上がることも珍しくないが、『波屋書房』ではそれをよしとせず、どの本も定価で販売している。
右が芝本尚明さんで、椅子に座るのが昌子さん。左より、長男の健一さん、次女の治子さん、尚明さんの弟の二郎さん。
【住所】大阪市中央区千日前2-11-13
【電話番号】06-6641-5561
【営業時間】10:00~20:00
【定休日】なし(1月1日は休み)
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