料理のうつわ十問十答

魯山人の美意識

木版画や篆刻(てんこく)で名を上げ、美術の世界で躍進し始めた北大路魯山人(きたおおじろさんじん)は、多くの数寄者たちとの出会いによって、料理人として、陶芸家としての道が開かれていきます。生涯に20~30万点と、驚異的な数の作品を残した魯山人。その大胆で奔放な作風には、一貫した美意識がありました。不遇な生い立ちから、時代の寵児へ。魯山人はいかにして稀代のアーティストになったのか? 生涯貫かれた、その美意識とは?

文:梶 高明 / 撮影:竹中稔彦
答える人:梶 高明さん

『梶 古美術』七代目当主。その見識と目利きを頼りに、京都をはじめ全国の料理人が訪ねてくるという。朝日カルチャーセンターでは骨董講座の講師も担当。現在、「社団法人茶道裏千家淡交会」講師、「NPO法人 日本料理アカデミー」正会員、「京都料理芽生会」賛助会員。
梶 古美術●京都市東山区新門前通東大路通西入ル梅本町260 
https://kajiantiques.com/

質問する人:村田知晴さん

1981年、群馬県生まれ。『株式会社 菊の井』専務取締役を務めながら、京都の名料亭『菊乃井』四代目として料理修業中。35歳で厨房に入り、現在5年目。「京都料理芽生会」「NPO法人 日本料理アカデミー」所属。龍谷大学大学院農学研究科博士後期課程に在籍し、食農科学を専攻している。

共に学ぶ人:梶 燦太さん

1993年、梶さんの次男として京都に生まれる。立命館アジア太平洋大学国際経営学部を卒業後、『梶 古美術』に入り、現在2年目。八代目となるべく勉強中。

(第6問)

魯山人に影響を与えた人物は?

梶 高明(以下:梶)
魯山人の生い立ちは本当に不遇で、道を外れても仕方ないほどの境遇にあったのですが…。自分の進む道を探し求めた結果、将来に必要となる人物との出会いを引き寄せてきた人なのではないかと私は思います。
彼の人生を身近で見続けた人がいないため、大雑把な記述や、本人の懐古談しか残されていませんが、したたかな生き方をしてこなければ、歴史に残る人物にはなりえなかったでしょうし…。
村田知晴(以下:村田)
確かに、多くのパトロンにも恵まれた、という話を聞いたことがあります。
梶:
なかでも、京都で出会った内貴清兵衛(ないきせいべえ)との出会いは大きかったでしょうね。
この方は多くの会社の役員を歴任した実業家で、古美術蒐集家としても名高い数寄者でもありました。魯山人は各地のこういう人たちから、食だけでなく、美術の、いや、暮らしの豊かさとは何かという学びを得たのだと思います。
この学びに、魯山人は痺れ上がるほどの興奮を覚えたのではないでしょうか。それは例えば、昭和初期の小画面の白黒テレビを見ている人に、大画面の8K映像を見せたような衝撃だったはずです(笑)。後戻りできないほどのインパクトを受け、魯山人がさらなる高みを目指す起爆剤になったことでしょう。
村田:
確か…金沢にも縁がありましたよね。
梶:
そうですね。金沢で大正4年に出会ったのが、漢学者の細野燕台(えんたい)。書家でもあり、茶人としても知られる人物です。
魯山人の篆刻や書の仕事を高く評価し、自らの人脈を通じて仕事の紹介をします。山代温泉の名旅館『あらや滔々庵(とうとうあん)』や『白銀屋(しろがねや)』の看板を手掛けたのは、この時代ですね。
「絵付けをさせてみたらどうか?」と、陶芸家の須田菁華(すだせいか)と魯山人を引き合わせたのもこの人でした。後に、魯山人は幾度も須田菁華窯を訪問し、作陶したと言われています。
この細野燕台も美食家で、名料亭『山乃尾(やまのお)』を贔屓(ひいき)にしていました。そこに魯山人も出入りを許され、料理、うつわ、もてなしに至るまで学んだと言われています。
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