産地ルポ これからの和食材

人の手と里海が育む、石川・七尾湾の「能登とり貝」

名前の由来は、貝殻から伸びる黒い貝足が鳥のクチバシに似ているからとも、食感が鶏肉に似ているからともいわれるトリガイ。寿司ネタや刺身などで利用される二枚貝ですが、今、話題の逸品があります。それが、石川県・能登半島の七尾湾で養殖される「能登とり貝」。身が大きく肉厚、上品な甘みが特徴で、200gを超える最高等級は「プレミアム」と称されます。今回は石川県七尾市の日本料理店『一本杉 川嶋』の川嶋 亨(とおる)さんと共に、「能登とり貝」生産者の山本吉昌さんを訪ねました。

文:坂下有紀 / 撮影:田中祐樹

目次

能登島三ヶ浦地区の「能登とり貝」生産者・山本吉昌さん。2015年から出荷が始まった「能登とり貝」は、石川県と生産者が長年かけて育んできた養殖トリガイのブランド。山本さんは開発プロジェクトの初期から調査・研究・実験に関わり、生産者のまとめ役も担ってきた。大型の「能登とり貝」の育成に長け、2021年の最大等級「プレミアム」の出荷数は、圧倒的な差をつけて全生産者の中でナンバーワン。まだまだ未知のことも多い「能登とり貝」の養殖で、技術的な挑戦にも積極的に取り組む第一人者。
『一本杉 川嶋』店主・川嶋 亨さん、石川県七尾市出身。父は日本一と謳われる旅館の総料理長で、幼い頃から和食に親しみ、『辻調理師専門学校 エコール辻 大阪』で日本料理を学んだ。卒業後は大阪『錦水(閉店)』『老松 喜多川』、京都『桜田(閉店)』などで日本料理の腕を磨き、大阪『居酒屋 ながほり』と故郷の七尾市「和倉温泉 日本の宿 のと楽」の『割烹 宵待』では料理長を務めた。2020年7月に七尾市一本杉通りで『一本杉 川嶋』を独立開店し、自慢のだしと地元食材を駆使した日本料理を提供している。
「能登とり貝」は七尾市の石崎町・中島町・能登島三ヶ浦と穴水町の生産者が養殖している。

「能登とり貝」が育つ波穏やかな七尾湾

「能登とり貝の養殖場は、通常は外部の人は立ち入れないので、今回見せてもらえるのは非常に貴重ですよ」と『一本杉 川嶋』の店主・川嶋 亨さん。ランチ営業を終えた水曜の午後、板前姿からカジュアルな服装に着替えた川嶋さんは、店から車で25分ほどの三ヶ浦漁港へ向かいながら心を躍らせていた。

「能登とり貝」は石川県の七尾湾で養殖されている。七尾湾は能登半島の富山湾側に位置する日本海側で最大級の内湾で、牡蛎の養殖やナマコの産地としても知られている。

幅に対して奥行きがある内湾地形に加え、開口部に能登島を抱えていることから、湾内は波が穏やかで潮位変化も小さい。周囲の能登の里山からミネラル等の栄養素をたっぷり含んだ水が流れ込み、植物プランクトンを育んで、多様な生態系を形成している。

「こんにちは、お久しぶりです」と港で迎えてくれたのは、今年74歳になる「能登とり貝」のベテラン生産者・山本吉昌さん。川嶋さんが山本さんと会うのは、かつて石川県が企画した視察に参加して以来で、養殖場の見学は今回が2度目となる。

川嶋さんは、日頃から生産地へ足を運び、生産者と食材に向き合うことを大切にしている。関西から出身地の七尾へ戻ったのも、能登の里山里海には魅力的な食材、伝統的な食文化があるが、後継者不足などの問題を抱えていることを知ったからだ。

料理を通して能登の食の魅力を伝えたい、持続可能な食の未来を築きたい。料理人の仲間たちと100年後の能登の食文化を創造することをミッションとする団体「NOTOFUE(ノトフュー)」を発足させ、生産者と力を合わせて里山・里海の環境、資源を後世に繋げる活動にも取り組んでいる。

「さぁ、出発しましょう」と、山本さんの船に乗り込んで港を出発する。港は本土と能登島をつなぐツインブリッジの島側のたもとにあり、海上は湖のように穏やかで船の軌跡だけが残る。5分ほど移動すると養殖場が見えてきた。



手塩にかけて育てた“箱入り”トリガイ

「七尾湾にある4つの生産地区の中で私が属する三ヶ浦漁港には、現在6人の生産者がいます。毎年7月頃に石川県水産総合センターで1cmほどに育てられた稚貝を受け取り、育成コンテナ(箱)に入れて海中に吊るし、成長したものを翌年の5月から7月半ばに出荷します。こんな風に海上にイカダを浮かべて育てる者もいれば、ブイ(浮き)を浮かべて直接ロープで吊るす延縄(はえなわ)式で生産する者もいます」と山本さん。

イカダ式と延縄式の違いを尋ねると、イカダは作業がしやすいが、波の影響を受けて「能登とり貝」が入ったコンテナが揺れやすい。延縄は足場がないので船上からの作業となり効率は落ちるが、波の影響を受けにくく揺れを抑えることが可能。

トリガイがデリケートだといわれる所以の一つがストレス耐性の弱さで、揺れも大敵なのである。高水温や酸素の欠乏にも弱く、七尾湾の養殖では水温・酸素の変化に合わせて育成コンテナを吊るすロープの長さを調節している。そして、最も手間がかかり、細心の注意を要する作業がコンテナの掃除だ。汚れや付着生物などを除去するため、コンテナを水上へ上げることになるが、その際の水温変化もストレスに繋がる。

しかし、掃除の回数を減らせばいいというものでもない。育成環境の維持は成長に大きく影響し、誤れば大量死を招くこともあるからだ。「手をかけすぎても、かけなさすぎてもいけない」と山本さんは長年の経験から実感を込めて語る。

コンテナで大切に育てられた「能登とり貝」は、ちょっと気難しい“深層”の箱入り娘のようだ。

地形・水流を読み、IT技術を駆使

「この場所で養殖しているのは、水が湧いているなど地形的な理由があるのですか?」と川嶋さんが尋ねると、「ちょうど山から水が流れ込んでくる場所なんです。海上だけを見ていると穏やかでしょう。しかし、水中には流れがあり、植物プランクトンも豊富で育成に適した環境なのです」と山本さん。

同じ漁場の中でも、トリガイの成長に合わせて吊るす位置を変える。生産者ごとにやり方やタイミングは異なるが、互いに情報を交換して生産の向上を図っているのだという。

「少し離れたところにソーラーパネルが見えるでしょう。あれは水温・塩分・酸素濃度・プランクトン量などの海洋環境をリアルタイムで観測している装置で、観測データをもとに導き出した育成に最適な水深情報が石川県水産総合センターから生産者へ提供されます。私たちはスマートフォンやタブレットで情報を確認し、育成コンテナの水深を随時調整することができるようになり、能登とり貝の安定生産と大型化が飛躍的に進みました」と山本さん。

採卵し、稚貝に育てて生産者へ種苗を配布しているのも石川県水産総合センターで、重要な役割を担っている。地道な研究開発、養殖の現場へのITの導入など、県のバックアップは生産者たちにとって欠かせない。「能登とり貝」は生産者と県による強力なパートナーシップの賜物なのだ。

養殖で産地の未来を拓く

トリガイは、東京湾、三河湾、伊勢湾、瀬戸内海が大産地で、京都の丹後地方、石川では七尾湾などで漁獲されてきた。しかし、高水温や貧酸素などの環境変化に弱く、全国的に豊凶の差が激しい。

石川における天然トリガイの年間漁獲量は、1989年の約500トンをピークに年々減少し、数トンのレベルにまで落ち込んだ。県は安定供給のため、養殖に関する調査研究を開始。当時、漁師をしていた山本さんも、トリガイ養殖の未来に賭けてみようとプロジェクトへの協力を決めた。

2010年に七尾湾で本格的な種苗生産試験と育成試験が始まり、試行錯誤を重ねて2015年春に初めて5000個(種苗配布は2.6万個)が出荷できるようになった。トリガイの種苗生産や育成は非常に難しく、種苗の量産技術や育成技術を有しているのは現在も全国で京都と石川のみだ。

中でも石川産「能登とり貝」は、身が大きく肉厚で甘みがあり、豊洲市場や料理人の間でも非常に評価が高い。5段階で設けた規格サイズのうち、特大と200gを超える最大級のプレミアムは、一般的なトリガイの倍以上の大きさになり、味・食べ応え共に別格だ。

料理の可能性を広げる「能登とり貝」

トリガイの寿命は2〜3年と言われ、大きなものは10cm以上、250gまで成長する。しかし、時間をかければいいというものでもない。

「トリガイは2年経つと身も硬くなり、産卵後は痩せて味も落ちます。そのため、能登とり貝はすべて1歳のものだけ、5〜7月半ばまでの最も美味しい時季に出荷しています。成長が遅い年も、出荷が8月まで延びるということはありません。本当に美味しい期間は短い、季節限定の味です」と山本さん。

「能登とり貝は、僕の店では初夏の定番食材。他の産地に比べて身の厚みが確実に違います。最大級のプレミアムはもちろんですが、特大や大も食べ応えがあります」と川嶋さん。

水中から引き上げた「能登とり貝」は、貝殻の表面に放射状の縦筋と横に入った模様があり、びっしりと短い毛で覆われていた。

「横に入った模様が木の年輪みたいでしょう。産卵や水上に上げたときなど、ストレスがかかったタイミングで入ります。ここが爪の先ほどに成長した稚貝を海中に入れた時、そのあとは掃除のために海中から揚げた時で、成長過程で何度引き上げたか、手のかけられ具合も分かりますよ」と山本さん。

「これほど繊細で、手間隙をかけて育てられているとは驚きです。今まで以上に丁寧に、気を引き締めて調理したい。生産者からのバトンを僕ら料理人が引き継いで、最高の状態でお客さまへ提供する。その循環で素晴らしい食材を守り、未来に伝えていけたら」と川嶋さん。今回の産地訪問で料理と食材への想いをさらに深めたようだ。

➡「能登とり貝」を使ったレシピは「特集」で紹介 。 石川『一本杉 川嶋』流「能登とり貝」3品


海上に浮かんでいるのが養殖用のイカダ。その奥に見えるのが延縄式のブイ。能登島に対して垂直に養殖設備が並んでいる。「ここは海底までの水深が20mで、海中の潮の流れもいい場所なんですよ」と山本さん。水深10mほどの位置に育成コンテナを吊るしている。
アンスラサイトという高品質の石炭を粉砕した粒子が敷き詰められたコンテナの中で「能登とり貝」は育てられる。成長に応じて適切な密度に調整する。
ふっくらとした厚みがある。「能登とり貝」の規格サイズは5段階。100g(約8cm)以上に育った成貝だけが出荷され、200g (約10cm)を超えるものはプレミアムに格付けされる。
この日、取材に同行してくれた石川県水産課の井上晃宏さん(右)と一緒に。

『一本杉 川嶋』
【住所】石川県七尾市一本杉町32-1
【電話番号】0767-58-3251
【営業時間】12:00〜14:00(水曜のみ)、夜18:00〜21:00
【定休日】不定休(完全予約制)
【お料理】昼コース8470円〜、夜コース18150円〜
https://www.instagram.com/ipponsugi_kawashima

フォローして最新情報をチェック!

Instagram Twitter Facebook YouTube

この連載の他の記事産地ルポ これからの和食材

無料記事

Free Article

おすすめテーマ

PrevNext

#人気のタグ

Page Top
会員限定記事が読み放題!

月額990円(税込)初回30日間無料。
※決済情報のご登録が必要です