信州蒸し
信州蒸しは、蕎麦を用いた蒸し料理(蕎麦蒸し)の名称です。古くから質の良い蕎麦の産地として知られたことから、「信州」の名が冠されました。とはいえ、蕎麦の産地は各処にあり、江戸では庶民の食べ物として愛された代表格。なぜ、その中でも「信州」の名が根付いたのか。今回は、信州と蕎麦の関係についてご紹介します。
蕎麦=信州の由来とは?
料理屋では、蕎麦を用いた蒸し料理のことを「信州蒸し」、または「信濃(しなの)蒸し」と呼びます。現在の長野県のほぼ全域にあたるのが旧国名の信濃で、その別称が信州です。古くから蕎麦の産地として知られ、江戸時代中期には、優れた蕎麦の代表格として名を轟(とどろ)かせました。信州蒸しの名も、この地の蕎麦の評判にあやかったと考えられます。
ところで、そもそも蕎麦は信州に限らず日本各地で作られる作物で、名声という点では、江戸の町の外食文化を象徴する食べ物でもあるのですが、なぜ信州がとりわけ有名になったのでしょう。
長野県は南北に長く、平地面積の少ない山国です。気候は冷涼かつ火山性土壌で、米も野菜も育てるのが難しい環境ですが、蕎麦の栽培には適しています。「蕎麦は七十五日」のことわざの通り、春に蒔く夏蕎麦、土用後に蒔く秋蕎麦と、手間をかけず2回作れる上、質も良い。信州における蕎麦は、まさに風土に生きる食文化です。
信州の蕎麦切りがブランド化し、庶民にも定着
蕎麦文化が広く日本で花開いたのは、蕎麦を麺状に加工する、いわゆる「蕎麦切り」の技術が確立したからです。南信(信州南部)の木曽谷では、早くから寺や宿駅で蕎麦切りが作られており、江戸時代にはこの地を訪れた大名家が食した記録があります。他にも、信州の各大名から一等品の蕎麦粉や寒ざらしの蕎麦切りが、献上されていたようです。
江戸時代の事典『本朝食鑑』(1697年)には、「蕎麦は四方に有り。〈中略〉下野の佐野、日光、足利等の処、武州、総州、常州でも多く産して佳品だが、信州の産には及ばない」とあり、信州産が上等だったと書かれています。生産量も多く、中期以降は江戸の町の蕎麦切り屋においても信州産蕎麦を多く用いたり、信州のついた看板をあげたり、長野発祥の更科(さらしな)蕎麦を謳ったりすることで、名声は高まっていきました。統治者のお墨つきを得て、江戸の蕎麦屋の特長にもなるクオリティとブランド力を有し、信州の蕎麦は名実ともにナンバーワンの座についたと考えられます。
映画『男はつらいよ』で寅さんが口にした都々逸(どどいつ)の「信州信濃の新蕎麦よりも、私ゃあなたの傍(そば)がよい」は、蕎麦と言えばすぐに思い出されるほど有名です。白身魚で蕎麦を包んで蒸す料理を、信州蒸し・信濃蒸しと指し示すのは、本格的には大正の頃以降のこと。実際のところ、同時期から信州の蕎麦の産量は減少していったのですが、すでに蕎麦=信州の結びつきは強固で、口慣れたものであり、料理名としても定着していったのでしょう。
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